末っ子のせいか、子供の時から割と肝が据わったタイプでした。
思い返してみればね・・・当時は分からなかったけど。
覚悟決めたら「煮てでも焼いてでも、食ってくれ」という子供。
兄と共に外に締め出された時(昔は怒られると家に入れてくれないという罰がありました。都会じゃアブナイけどね)・・・泣き叫んで家に入れてもらうよう家の中の母に懇願する兄を横目に、「ど~せ入れてくれないからさ、ほとぼり冷めるまで散歩でも行こうよ。泣いて頼むなんて親の思うツボだよ」とそそのかす腹のくくり方。スゲー妹だな、私。
・・・とは言え、ビビリでもあるため、大人になって知恵がついてすっかりA型チキン派になってます。
そして周りを気にしすぎる傾向。
「女の子なんだから気を遣いなさい」という昭和教育で育ったもんでね~。
ヨガを最初に始めた頃は、シャバーサナが苦手でした。
クラスの最後に目をつむって仰向けになる・・・耐えられないモンキーマインド。
「え?みんなちゃんと寝てる?」「まだ起きる合図ならないの?」「先生どのあたりにいるの?」
途中で顔を上げて周りの様子をキョロキョロしちゃう人・・・たまにいるでしょ、アレです、アレ(笑)。
今思えば随分成長しましたよ、そこから。
月一のスートラクラスで、瞑想をみんなでやってみました。25分。
その時の先生の言葉にハッとしました。
「ここにいる人はアシュタンガを日々プラクティスしているから、すぐに座るマインドに移行できる人達だけど、ほとんど一般の人はいきなり「座って瞑想しましょう」と言っても無理です」と。
あ、ヨガを始めた頃の私・・・だ。ぜ~~~~ったい無理だ。
3分で薄目開けてキョロキョロ、ソワソワして・・・5分限界だな(笑)。
「なんで?」「どのくらいやるんですか?」「どうなるんですか?」「今こんな感覚ですけど合ってます?」
立て続けにこんな質問してただろうな。
気を回しすぎて、情報を得て安心したい。
子供のナゼナニ期か?笑。
今は「はい、わかりました。座ります」・・・以上。
何がそんなに変わったのか、考えてみました。
子供の時の「煮てでも焼いてでも食ってくれ」に通じるような、自分を放擲する心の強さ。
投げやりじゃないです(‘ω’)、いわゆるSurrender、自分を相手に明け渡す覚悟。
相手や周りに気を回さず、どし~んと構えて「ドンと来いや」スピリット。
それはある程度心が強く自由でないとね。。
昔に比べて肝が据わったんですよ、きっと。
それは日々のプラクティスで培われてきている事。
自分をその場でありのまま・・・繕う事もせず、飾りもせず見せる強さ。
そして、どうであれ、自分の尻ぬぐいは自分でやる覚悟。
(昔お相撲さんは自分でお尻を拭けないから付き人がやると聞き、お婿さんリストから除外した記憶があります(余談))
子供の時の怖いものなしの無防備ではない、怖さや経験得て乗り越えた先のメンタルの強さ。
潔さともいうのかしら。
不安や恐怖はあります。でもそれを隠そうとも取り繕う事をせず、受け入れる。
ま、言葉を変えれば、図太くなって、図々しくなったのかもしれません。
ただね、その自分を放擲するというのは、相手や空間を信用しているから。
もしヤンキーに囲まれていたらチキン丸出しです。
ヤクザさんに「オラァ、一旦座れやオバハンよぉ」なんて・・・縮こまって心臓発作起こしそうです。
ここならば、この人達ならば大丈夫・・・という自分の中でのスクリーニングはありますよ。
言葉では伝わらないコミュニケーション、あうんの呼吸だったり、その場の雰囲気だったり。
それはきっと自分も発していて、周りと上手くシンクロしてるんだろうね。
引き寄せの法則とか聞きます。
そういう自分の出している電波みたいなもんが、上手くシンクロしちゃうんじゃないかしら。
似たような人が集まったり、描いたようなものが手に入ったり。
取り繕ったり、飾ったりして自分を偽っている時には、弱電波しか出ない様な気がします。
肝を据えてど~んと構えて、Surrenderした時「お・ま・た・せ♡」ってやってくる。
ごちゃごちゃ考えず日々プラクティスをしていると、きっと良いことあるね。