「結婚するなら、年収1千万以上の人がイイわ~」
「3つ星レストランで食事をしたい」
人生には色々条件を付けて取捨選択をしようとする事があります。
エラそうに言いますが、私もしょっちゅうです(笑)。
贈り物をする時「三越の柄の包装紙でお願いします」とか頼むし。
スーパーで買っても中身は同じだけど、三越の包装紙で生まれる格差。
自分だって、Godivaだと分かっているからおいしさが増すわけで・・・(笑)
昔のTV時代劇の「水戸黄門」を思い出しています。
徳川光圀が隠居後に、お付きの家来と旅をしながら悪者を成敗するストーリーです。
悪者達は「うるさい爺さんだ」「目ざわりだからやっつけてしまえ」と、黄門様達に歯向かいます。
戦っている途中にジャーンと印籠を見せると、悪者一味は全員ひれ伏して一件落着。
あれ、印籠の前と後、、、別に黄門様が仮面ライダーみたく変身して違う姿になったり、ウルトラマンみたいに巨大化したわけでもなく(笑)、お爺さんには変わりなく・・・。
単に周りが印籠の徳川の家紋を見て、急にスゴイ偉い人だったと気づいて(勝手に)降伏していくわけです。
もしも・・・徳川家を知らない人なら「なんだそれ?やっぱりヤッチまえ!」となるんだろな(笑)。
結婚相手で良いなと思った人が無職と分かったら、魅力が薄れたように感じたり。
逆に候補でもない人が年収1千万で医者や弁護士と知ったら、急に気になったり。
イタリアでピザ職人から学んだ・・・と聞くと、そのピザが余計に美味しく思ったり。
その人や料理自体は、事実を知る前後で変わらないんですよ。
勝手に得失点という色眼鏡を付けて相手を見てるだけなんですよね・・・。
まるで尾ひれ(その人の周りにある)条件=その人を表しているように感じてしまう・・・・悲しいサガです。
中身で判断できるようになりたいもんですよね、、、、だからプラクティスしてるのでしょうけど。
スタジオで練習してる時は、もちろんそんな条件はお互いに分かりせん。
隣のマットの人が医者か弁護士かもしれないし、有名人かもしれないけど、、、そういう周りの“尾ひれ”が白紙の状態。
だからこそ、フラットな“練習生”という同じ高さで関係性が成り立っています。
年齢も性別も、職種も人種さえ関係なく、み~んな一緒。
マットの上に身一つで自分と向き合っている訳です。
もし急に「私弁護士です」と言われても、その場で「で?」という返答しかしないだろうな。
マットの上ではそんな肩書は何の役にも立たないからね~・・・。(医者だったら解剖学とか聞けるかもだけど)
間違っても「ははぁ~、参りました」とひれ伏したりはしない(笑)。←それどころじゃないってのもある。
身体の使い方が上手な方や、常に真摯に練習している姿の方が・・・ひれ伏すわ。
現代の日常の価値観がいかに通用しないか・・・面白いですね (・∀・)
(マットを下りたらまた俗な私に戻りますけどっ)
先生以外は、皆「練習生」。
先生でさえ「プラクティショナー」としては一緒の道。(ちょっと先を走ってるけど)
俗世界のステイタスは全く役に立ちません。
アシュタンギ・アシュタンギーニーは、全員レスペクトしています。
なんなら、同じ道を同じ方向に歩いている同志という気持ち。
俗世界でも、、、応用できればなぁ~・・・
相性が合わない人でも「この人はアシュタンギーニだ」と思い込むと、接し方も変わるかな(笑)。
怖いなと思う人も「一緒にマットで練習している」と思うと気さくに話せるかな。
自分の色眼鏡がアシュタンガ基準になってるわ(笑)。
でもそのくらいフラットに同じレベル・・・と思って皆に接すると、周りの世界が違って見えてくるかも。
もうちょっと開けて優しい世界になるかもしれませんね~。
コロナ禍で、世界中の人々が「コロナ前の世界にはもう戻れない」と嘆いてますけど、、、
人間以外はコロナ前も後も変わってないのですよ。
春になると花粉は飛ぶし桜は咲くし。
自然の摂理は全く変わってないのですよね。
コロナで世界が変わったと嘆いてばかりいないで、変わらずに訪れる自然の美しさを感じたいですね。
コロナは黄門様の印籠ではないから、目の前に出されても、それを柔軟に受け流して悠然とした自然の大きな流れを大切にしたいなぁ~。
決してひれ伏して降参してはイケナイのです (*’▽’)。