先日の大阪のTattvaで、Andrew先生のカンファレンスで触れていた「ダルマ(Dharma)」についてボンヤリ考えています。
まだコレだ!と理解がクリアーになってないからかな。
「〇〇であるべきものが、あるべき姿でいること」 みたいな表現でした。
たまたま側にあった、Hanumanへのお供えのキウイを手に取り「このキウイは、キウイとなるべくして生まれ、キウイとなっている。ダルマであると言える。スイカになったりしたら大変でしょ」と説明していました。
バラもバラとして生まれバラの花を咲かせている。いきなりキュウリになったりはしないのだ。
それはダルマに沿っている事。
人間は人間として生まれ、人間として生きている・・・でも、人間として生きるってすごくざっくりじゃない??
私は私となるべくして生まれ、私として生きる・・・私はどう生きることがダルマなの??
頭からケムリが出てショートしそう(笑)。
深く勉強している訳でもないし、教養も人並み過ぎて、自分の言っている事がわからなくなりそうだよ。
あまりにも壮大なテーマで手におえないので、ちんまりと小さくした部分で考えようと思います。
日々の生活でどう生きる事がダルマなのかしら?
最善に生きる事。為すべき事をなす事。
朝起きて、(朝錬して)、会社で仕事して、夕食を食べ、入浴し寝る。
当たり前の生活だけど、これでいいのかな??
ダルマに沿わない行動をしていると、後々問題が起きるそうです。
心穏やかに、日々平穏に過ごしていられるのは、今の生き方がダルマに沿っているからなのかな~。
そもそも生まれた意味みたいなところまで、掘り下げてみようかしら。
与えられた人生の課題に沿って、ちゃんと生きる事がダルマに沿うことなのかな~。
医者になるべくして生まれた人が医者になり、アスリートになるべくして生まれた人がスポーツ選手になる。
自分の好きや得意が、ぴったりダルマに沿ったものかもしれないし、正反対かもしれないし、、、。
たまたま一生懸命に生きている中で、選んだものが正解だったらラッキーよね。
正直、ダルマに沿って生きているか?なんて・・・私は一生かかっても分からないで死んでいくと思う。
それでも日々幸せに生きて、立派にあの世へ行けたら、それはダルマに沿った人生だったのかな。
最初の例えに戻るけど、キウイだって、頑張って日々精進してキウイになったワケじゃないからね。
気づいたらキウイなんでしょ(笑)。
肩の力を抜いて、私も自然にボンヤリと幸せを感じて生きてるぐらいでちょうど良いのかな。
ヨガをすることがダルマだったら嬉しいな。いや、きっとそうに違いない。
今の私の脳みそでは、ダルマは果てしなく宇宙の様に無限なナゾな存在だわ。