不織布のマスクなんて、日本人しかしてなかった。
旅行で日本に来ていた欧米の人達は、物珍しくて写真撮って「ナンダ?アレ?」的な興味の対象だった。
ほんと、半年前までの話。
今はどうよ、全世界でマスク争奪戦で品薄だよ。
スタンダードなんて、コロコロ変わる。常識だって変わり続ける。
当たり前田のクラッカー(←私より1世代前の昭和のギャグ。母の口癖)
コロナで全世界が引っ掻き回されて、貧富の差や人種差別が顕著に表れてきています。
オブラートに包まれていたのが、命の危機であぶり出されただけなんだけど。
いつの時代でも変わらずに・・・存在し続けている残念な世界的な負の遺産。
生まれながら特権を享受している人は、手放したくないエゴがあるからね。
そして、少なからずそういうバイアスで見てしまう自分も否めません。
白人の金髪&青い目の外国人を憧れちゃうし、相手が名家の出だと聞くと襟を正すし 笑。
いつからだろう・・・。
思い返せば、小学校の同級生で見た目が変わった女の子がいました。
天パでアフロみたいな髪形で、顔も褐色。身体も大きかったな~。
今から思うと、恐らく黒人とのハーフの子だったのだろうな・・・。
田舎の小・中学校では、当時は全くそういうバイアスが無くって、変わった見た目だったけど、それすら今から思えば・・・くらいの感覚。
名前も日本人だったし(まっちゃん、と呼んでた)、引っ込み思案で繊細な子で一緒に仲良く過ごした思い出。
本当に何の違和感もバイアスも無かったな。
外見の違いなんてな~んにも関係なかったし、違和感すらなかった。
まっちゃんの心優しいところと笑顔がたまらなく好きだったなぁ~。
高校ぐらいから帰国子女がスゴいとか、お金持ちはスゴイとか、なんとなく上下関係的なものを肌で学んだのかな。
そう思うと、偏見とか差別とかって根深いよね。
10代後半から植え付けられている感覚だからね。
誰から教わったのだろう?社会?仲間?
何となく肌感覚で刻み付けられてきたんだろうね。
海外旅行や海外生活で、黄色人種としての偏見や差別を受けた経験がある人も多いと思います。
それが当たり前でしゃーないと・・・やり過ごす技も兼ね備えちゃってるのもいけないんだけど。
逆に、そういう偏見も持たず接してくれた一期一会の旅先の現地の人々の親切は、涙ちょちょぎれるほど嬉しかったり。
そうやって、偏見を持った目で見る事・見られる事が当たり前の世界、、、、変だよね。
本来の偏見バイアスを介さない、小中学校の時の私の気持ちで、自分が差別される・するどちらでもない姿に戻ってみる。
変にコソコソ&モゾモゾしてないで、正々堂々としていた方が自由。
偏見をやり過ごす技と、堂々としている姿。
暴力や暴動で抗議するのではなく、何か新しいやり方があるんじゃないかな?
今世界中でコロナの影響でストレスが高まっています。至るところで暴動や偏見による差別が横行しています。
それがまた新たなバイアスを作って、溝が深まってしまう事が心配です。
相手の立場を思いやる事が出来ない。
ツライ時はお互い様っていう精神、大切にしたいな。
(白でも黒でもない・・・人気者♡)
ちなみにヨガの発祥の地、インドはカースト制があったことでも有名。
今でも形骸化して残っている部分もあるのでしょう。
差別や偏見が公に認められた世界。(でした)
でも、ヨガだけは別世界だったそうです。
最初はカーストの上の階級だけに許されていたヨガでしたが、徐々に女性や下の階級に広がる長い年月の中で、平等が保たれてきたそうです。
マットの上ではカーストの上下も、男女も関係なく平等。
階級違う人同士が隣のマットで練習するなんて、外の世界では考えらえなかったみたいです。
(アシュタンガも女性に門戸を開いた当初は、男女別々のフロアで練習したようです。今はカンケーなくみんな一緒だけど)
そうやって、スタンダードは変えられる。常識は変わっていける。
そう信じて、私は毎日マットに立ちます。
そういえば、、、同級生まっちゃん・・・今頃何してるかな~。