久しぶりに三島由紀夫の「豊饒の海」シリーズ全4巻を読んでおります。
実はこう見えて(?)読書は大好き、三島先生の本は若い頃にほぼ読みまして・・・。
美しい表現の数々は、凡人にはど~にもこ~にも思いつかない甘美な響きで、うっとりしております。
さておき(笑)、自分の記憶のアホさにも驚いております。
なんせ、全く違う内容で記憶してた( ゜Д゜)。
読み進めて、「え?」「は?」「これ、あった?」・・・ストーリーの大切なところがごっそり記憶から抜け落ち、一瞬の美しいシーンだけが強烈に印象にあったのですが、それすら前提が記憶と違う・・・。おやおや。
純愛かと思ってたら、結構ドロドロやんけぇ、、、、記憶のアホさに呆れながら読み終えた「春の雪」。
人間の記憶って、都合よく脳で作り変えて、それを真実だと思い込めるもんなんですね 苦笑。
ほんと、三島先生ごめんなさい・・・でした。
若い頃の思い出や友情、歳を取るにつれ輝いてキラキラした宝物に見えますよね。
当時は仲間同士のいざこざや、駆け引きや、いい思い出だけでもなかったはずなのに、記憶が上手くデコってくれて、楽しく笑い合えた最高の時間だけを残しておいてくれるんです。
私も、もうちょっと細くて可愛らしくて、女子だった・・・・記憶の中ではね。
親戚の集まりでも、戦時中の話を笑いながら出来るのは、当時疎開した楽しい思い出として残っている、当時子供だった叔父や叔母で、祖母はツライ想いをしたのか、一切語る事はありませんでした。
子供だったからこそ、真実を見ずに済んで、身の回りの野原と非日常を過ごした記憶が、楽しかったと置き換えられたのでしょうね~。
きっと今の世界的な危機も、自分が80歳や90歳になったら、事実から都合よく切り取った記憶が生きて、実際の悲しみや辛さや不安というものは風化しているのかもね。
記憶と言うのはいつも自分都合。
それでいいのよ、そうでなくちゃ、悲しみが多すぎてツライじゃん。
もう一つ自己都合なものと言えば、思考。
ストレス下の現状、自分が正義となって過剰に人を非難したり、自分を卑下したり。
外出自粛の中、外を歩いている人を非常識として攻撃する、SNSの気に入らない発言を揚げ足を取るように非難する。
病院へ行く途中かもしれないし、非難するほどヒドい発言じゃなかったりもする。
自分は我慢しているのに、アイツはズルい、コイツも許せん。
また、医療従事者は自己犠牲をして人命救助をしている・・・のに比べ、自分は販売業、清掃業、サービス業、、、外出自粛の中でも出勤せねばならず、仕事を恥ずかしく思ったり。
いやいや、職種に卑しいとかないですって。
どの仕事であっても、一生懸命に真摯に取り組めば、それは尊い仕事です。
ズルして気を抜いたり、自分の損得で行うのであれば、それはどんな仕事であっても卑しいと思います。
自分の脳で作られる記憶や思考は、自分都合。
昔、誰だったかな~、友人で「人生の終わりを迎える時に、49%が不幸でも、51%の幸せがあれば勝ち」と言っていた。
まだまだ人生折り返し地点だけど、終わりが来た時、自分の人生を振り返った時、そうありたいね。
今何が出来るかな。
少しでも楽しい&幸せな豊かな記憶を作って、人を非難せず、与えられた仕事を一生懸命やる、、、って事かな。
分かってても難しい課題だね~。
休み休みだけど、頑張ろう。
そうして、しばらく経って再度三島先生の同作品を読んで、またもや記憶違いに愕然としてそう 笑。
ど~して、あんなに違うストーリーとして記憶してたんだろ、、、。一番好きな作品とか言ってたのに、ね。