私の不注意でミニ観葉植物が1つ枯れてしまいました。
何もないのも寂しいので、人工のニセモノを差してみた。
なんと・・・
ホンモノっぽく見えるじゃないですか!笑
違和感がなさすぎるので、当分このまま飾っておきます。
間違えて水を上げないように気を付けます。
ニセモノもそれっぽい感じで装えば、ホンモノに見える。
逆に生きてる観葉植物でもニセモノに紛れ込ませたら、ニセモノに見えるだろな・・・。
自分の目は節穴です (゚∀゚)
でもね、ホンモノかニセモノが重要な事じゃなくって、それがある事で自分のココロがハッピーならば、何でも良いのではないか?とも思うのです。
軸は真偽の正義ではなく、自分の価値観。
ヨガってなんだろう、、、と思うのです。
今自分が捉えているヨガと、インドの人が生活の一部として自然に身についているヨガ・・・多分違う。
多分、逆に言えば、西洋で座禅(メディテーションやマインドフルネス)がフューチャーされていますが、個人的には禅の仏教的な思想や無我の考え方を捉えたものとはちょっと違うものとして扱われている気がしますが・・・同じ感じ。
私のヨガと、哲学から学問、生活や宗教に密着したヨガとは少し違うのかもしれません。
インドの寺院や神様を礼拝している訳でもないし、
アーユルヴェーダに基づいた生活を送っている訳でもないです。
パタンジャリも、蛇なの?マジで?ぐらいなシレっと・・・宗教的な部分と分けて考えてる気がします。
とは言え、プラクティスをするとウエストが細くなるとか、痩せる・・・と言ったエクササイズ目的でやっている訳でもないし。
アーサナプラクティスだけをフューチャーして実践しているので、禅宗の中の西洋人向けにアレンジされたマインドフルネス瞑想みたいな違いかもしれません。
本当のヨガとはちょっと違う。
ハーレークリシュナでもないし、心の中にシバもビシュヌもいません。
いわばニセモノのヨガ、、、なのかも。
ヨーガの中の自分が良いなと思う物だけを、好きにピックアップして都合よく作った世界。
これからも急にヒンドゥーに改宗する事もないでしょうし、困った時(だけ)「神様!仏様!」と祈るでしょう。
ニセモノはどんなに頑張っても、ホンモノにはなれないのです。
ホンモノっぽいニセモノが精一杯。
でも、ニセモノだろうが、それで今の自分が平和で穏やかだったら、、、
無理にホンモノじゃなくても良いのかもしれないと思うのです。
信じてないモノを信じようとしたり、ストレスを感じても「それがホンモノのヨガだから」というだけで迎合する事もないかな・・・。
知識として知る事は大切だけど、無理してホンモノに近づこうとするのも、今の自分には「らしくない」気がしています。
ヒンドゥーの神様を飾らなくても、神棚でも家族の写真でも、手を合わせて感謝をしたり、その周りをキレイに整えればいいし、
マントラを唱えたり、サンスクリット語を書けなくても、素直にありがとうを言える人であれば良い気がするし。
形や「〇〇であるべき」に囚われずに本質を感じられるようになりたいですね。
ニセモノの観葉植物を並べて「やっぱりニセモノは気持ち悪いな、ホンモノが良いな」と思う人もいるでしょう。
だけど「ニセモノだから悪い、ここにあるべきではない」・・・という事とは違うと思うのです。
上手く言えないけど・・・。
週6日プラクティスする人が真のアシュタンギ/アシュタンギーニで、週1回しかやらないからダメ・・・もないんだよね。
週1回しかしないのも、家族への奉仕や仕事など、様々な別のプラクティスをしているかもしれないし。
プラクティショナーの知り合いが多いとか、
凄いアーサナが出来るとか、
ヨーガ哲学の言葉を沢山知ってるからスゴイとか、
ヴィーガンとか
・・・本質以外のアイテムだけで判断しないようにしたいですね。
私は十分ニセモノで、それでも心豊かに平和に過ごせるニセタンギーニで良いのです♡
ホンモノにはなれないし、きっと本物に近づく努力をする方が自分の本来の姿との違和感を感じるかもしれません。
盆暮れ正月は習慣として身についているし、神社やお寺もフツーに行くし。
モノにはそれぞれ神様が宿っているっていう考えの方が好きなんだな・・・きっと。
全くの余談ですが・・・子供の頃に読んだ外国の児童向け書籍の一節で(タイトルや物語など一切忘れてしまったのですが)「バナナの神の思し召し」というセリフだけ強烈に覚えています。
バナナの神って・・・どんな神様でしょうね。
とても南国チックな風を感じた事だけを覚えています。
今でもバナナを見ると、バナナの神とそのセリフを連想します(笑)