ヨガの小路を散歩して

アシュタンガヨガの練習日記、ヨガや旅のことなど綴っています

ありがたい

紛争地域の一般市民の被害状況の報道を見るたびに、、、日本のノンビリした今現在の環境と違い過ぎて、どうしてよいのか分かりません。

 

TVのニュース番組を見ていると、やるせない気持ちになるのは・・・私だけかしら?

逃げ場もなく、家族は奪われて、電気もガスも無い環境で必死に生きている人々の様子を伝えたかと思うと、

「さて、次のニュースです」と切り替わり、

「お得大盛ランチ情報」とか、「〇〇さん華麗に舞台に出演」なんて、、、報道の手広さに脳みそがバグってしまいそうです。

 

今、食べ物すらない、安全の保障も無い人々への救いの手は、どこから&どうやって差し出したら届くのでしょうか?

どこまで寄り添ってあげられるのでしょうか?

 

そんな事を悶々と考えたりします。

 

ヨーガ哲学の講座を受けたアムリタトシ先生に、オンラインセッションで質問をしたことがあります。

「世界中に紛争や飢餓など、助けなければならない命が沢山あります。

しかしその前に、自国日本でも、東京でも困っている人が沢山います。

保護犬・保護猫など救うべき命が沢山あります。

身近な人だって、手を差し伸べる必要があります・・・。

まず自分の身近な周りを幸せにしないと、自分の遠い存在を助けることなんて出来ないんじゃないか?

でも、そうするといつまでも世界中の不幸はそのままになってしまうのではないか?

ヨギーとして、どう思いますか?」

 

そんな問いを投げかけたような記憶があります・・・(うっすらね。)

 

先生の答えは

「良い考えです。

今、あなたが出来る事をやっていきましょう。」みたいな、感じだったかな。

 

要は、自分が全部救えるなんて思うのが慢心なのでしょう。

それよりも今自分が出来る事をちゃんと一生懸命やる・・・それがヨギーとしての答えかもしれません。

 

David Swenson先生も

「ヨギーとは、自分の存在で、周りの環境をより良くすることが出来る人」というような表現をされます。

 

もちろん、募金の機会があれば募金をするし、親や友人が困って居れば手を貸すし。

それが世界平和の一旦を担っている訳ではありませんが、自分にできる事。

・・・そんなんで良いのかな?とはちょっと思うけどね。

 

とは言え、紛争地に行って一般民を守る活動も出来ないし。(イッチョ前な事言ってますけど、行動力ゼロ)

デモに参加したりするほど、主義主張もないし。(ヘタレ)

自分が出来る事は、常に弱者の事を心に留めて置いて、気持ちを寄り添わせていくことかしら。

 

非力やなぁ~・・・(;´・ω・)

 

朝、何も心配なく安全も保障され、平和な世界でマットに立てること。

週末家族とふらりと出かけたり、スーパー買い物を出来る事

帰る場所があり、寝る場所があり、TVを見ながらくだらない事を話せる家族がいること

 

本当は、世界全体で見たら、全部当たり前じゃないんですよねー。

なんとまぁ、慢心した心で文句言ってるんでしょうね、アタクシ。

 

ありがたい・・・漢字にすると「有難い」なのです。

本来は「有る事が難しい」のです。

そんな「有難い」事に囲まれた&恵まれている状況を、当たり前に思っちゃいけないですね。

 

そういう慢心したワレを取り除くためにプラクティスが必要なのですよねー。

 

ちなみに、イスラエルのテルアビブにもパレスチナにも、それぞれアシュタンガのシャラがあるようです。

そこのプラクティショナーの皆さんも、無事でありますように・・・。

ウクライナにも、キーウにもオデーサにもシャラがあったようですが、、、今は皆さん無事でいてくれるのでしょうか?

 

私の周りの色々な人が、今日も一日元気でありますように。

私のお肉がちょっと減りますように・・・。(どさくさ)

 

そんな思いを込めて、チャンティングの前に深く呼吸をしながら彼らの為に祈ります。

(プラクティス中は、、ヒィコラ・・・無の境地です)

f:id:Piccolina_mami:20231106200832j:image

今のワタシのありがたい環境に、感謝して・・・練習しましょう。