ヨガの小路を散歩して

アシュタンガヨガの練習日記、ヨガや旅のことなど綴っています

手に入らないモノ程、大きく感じるもの

「サヨナラ、〇〇」そういう場面、多くなりました。

長年愛されたお店の閉店、〇〇列車が最後の運行、定番のお菓子の製造中止。

 

無くなると思った途端、惜しくなる(笑)。

 

急に感情移入しちゃって、最終日に涙を流して「ありがと~!」と叫んで見送ったりするの、、、なんででしょうね?

それだけ愛着があれば、そうなる前に採算が取れるよう色々協力すれば良かったじゃん(←悪魔)。

 

人って、図々しいもんです。 

存在している時は見向きもせず、無くなると知るや途端に欲しくなる。

そして無くなる時だけ盛り上がって、翌日からケロっとしてたり。

 

ロマンスならば、実らなかった初恋の相手をいつまでも思い続ける・・・という事でしょうか?

手に入らなかった&もう入る可能性もないからこそ、その後の相手はいつまでも初恋の人を超えられないのですよ。

よくあるドラマのストーリーですね。

 

万が一手に入ったところで、それまでの思いが強すぎて、現実の相手とのギャップに悩みそうな気もしますが(苦笑)。

 

逆に手放した途端、大切だった事に気づく痛恨のミスを実感する事もあります。

それまでは当たり前にあったもの。別に気にも留めてなかった側にいた人。

家族や友情、同志など。

離れてみて、初めて大きな存在だと気づかされます。

今まで当たり前にあったことがどれだけ幸せな事であったか。

 

一人暮らしを始めて、親がどれだけ世話してくれていたかに気づく。

ケンカして会わないと、どれだけ友人の存在が大きかったか。

 

結婚して実家を離れた後、飼い犬が天に召された時は泣きました。

もっと会いに行けばよかった、もっと一緒に遊んであげればよかった・・・。

居なくなってから後悔しても遅いんですけどね、生きてる時はずっと生きてるモンだと思っちゃうんですよ。

 

本当、人間って図々しいもんです。←大事なのでもう一度言いました。

 

今ある幸せは見えてなくて、上ばかり見て無いものねだりばかりしています。

 

手に入っちゃっている物は、小さく見えるもんですね。もしくは見えてないか・・・(>_<)

どんなに大切なものでも、当たり前になって存在すら分からないくらい空気みたいな存在。

 

逆に手に入れたいモノは、手に入らない存在ほどキラキラ輝いて眩しい。

だからそればかり見てしまって・・・周りに既に沢山の幸せがあるのにね。

 

ちなみにプラクティスで、今燦然と輝くスポットライトに照らされているのは、スプタとカポタとカムアップ(笑)。

手に入らないので、既にメインイベントと化している3大アーサナです。

そこばかりに意識が言ってしまうのは事実 ( ゜Д゜) 

・・・修行が足りんのです。

 

もっとそれ以外にアーサナはあるんだけど、、、出来ている(と思ってるだけかもですが)アーサナは、呼吸で意識をせずに進んでいきます。

出来ている事に幸せを感じて・・・ないと思う。当たり前だから。

逆に出来ない日は「はぁ、なんで出来ないの?ポンコツめ!」と身体に八つ当たり。

 

その前の前提として、朝からプラクティスが出来る事、ケガも痛いところもなく、毎回じっくりスタジオで練習出来る幸せがあります。

それすら当たり前だと思いがち。

自粛後再開された数日だけシミジミとしたけど、ケロっと日常に戻ってしまった。

身体だって、動くのが当たり前だと思い込んでしまう。

ケガして初めて制限が出て、自由に動ける大切さを思い知るんですけどね・・・。

昨年のぎっくり腰とか、もうすっかり忘れてるし(苦笑)

 

手にした幸せは小さく見えて

手に入らない欲望は大きくて、

今ある幸せはずっと続くと思ってて

無くなったら周りのせいだと批判して

失って初めて大きな後悔をして

喉元過ぎたらすっかり忘れてバカ騒ぎ

 

ほんと、人間って図々しい。はい、3度言いました。

(多分テストに出ます(笑))

 

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それでも人生は、楽しいのです。

今ある小さな幸せに気づけたから。

本当は小さくなんかない。とっても大きいモンなんだけど。