ヨガの小路を散歩して

アシュタンガヨガの練習日記、ヨガや旅のことなど綴っています

『I』のない世界

解剖学のマサ先生のある言葉がとても響いています。

多分先生はTTの中で何気なくおっしゃったかもしれません、でもきっと先生ご自身のプラクティスの中で常に意識しているからこそだとも思えます。

 

「ヨガのプラクティスは、自分の~という『私』を取り払っていく練習です」と。

 

言葉だけだと実感しにくいのですが、この言葉が出たのは呼吸について話していた時。

パターンその①

「鼻から大きく息を吸って」という声掛けと共に呼吸する。

パターンその②

「空気が頭蓋骨の奥に入っていくように」という視点を変えた声掛け。

 

呼吸するという行為は変わらないのですが、声掛けの違いは、主語がI(私)か、それ以外か。

英語で習ったでしょ、受動態。そんな感じ。

「鼻から息を吸って」というのは、主語が隠れているけど「(私が)鼻から息を吸う」というI(私)が主体。

「空気が頭蓋骨に~」は主語は空気です。空気が生き物のように自ら体内に入ってくるような感じ。

 

この微妙な意識の違いが分かりました。

私感ですが、主語が『I』の「私が鼻から~」は、吸うぞっ!と言う意識が働きみぞおちが固めます。

「空気が~」というイメージに変えると、みぞおちも喉奥も楽に開いて身体の奥へ空気が入ってくる。

 

そうか、こういう「I」(私が~)が邪魔しているのか!

 

それから「I」の無い世界で練習してみようと試みています。

自分が~しているという感覚を手放す。

“(私が)お腹を伸ばす”ではなく、お腹が自由に伸びていく。

“(私が)胸を開く”ではなく、胸が気持ちよく開いてくる。

 

そう思いながら練習を進めていくと、なんとなくPracticeが何かに捧げられるものである・・・かもしれないな?なんてカッコイイこと考えたりします。

上級者であれば、マントラ通りパタンジャリに捧げると感じられるのかもですが、まだまだそこまでは到達できず(´・ω・`)

 

でも、自分の力ではない、“何か”に動かされている?捧げる?ような感覚。

自分がコントロールするものではない何か、です。

(練習の調子が良い時ONLYね。まだダメダメの時は俗世の泥まみれのプラクティスですっ)

 

な~んとまぁ(私が)(自分が)という考えの多い事か。

ビビリなんで、更に自分で制御したいんだろね。

 

そういえば、エレベーター内でもボタンの前に立って、「開ける」「締める」を支配する感覚好きだもんな~(笑)。

 

自分の「I」を手放してプラクティスしてみると、みぞおちが軽く感じます。

まだまだ固めちゃう事も多いけど、いままではもっと人一倍ガチガチだったんだろうな~。

おかげでちょっとだけブリッジが気持ち良かったり、カムアップが少し成功率が上がってきました。

そしてそれを静かに&素直に喜べるようになってきました。

今まで一番進みの遅い私を辛抱強く見守ってくれる先生方から「うん、いい感じだね!」とお褒め頂く事があっても、「あ、いいえ、まだ上手く感覚が掴めません」とか「いやぁ~、まだ手を寄せないといけないし、上がってもふらついちゃうし~」と言う言葉が出てきてました。

最近です、言葉少なく「ありがとうございます!」と素直に言えるようになったのは 笑。

 

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これもきっと、“自分が~”の練習じゃなくなったので、素直に“何か”に感謝して言えるようになったんだろね。

なんかさ、成長したんじゃん、自分♡ 「I」は無いけど、愛は溢れてるぜ♡